源智上人による再興
源智上人がお寺を再興し、無生山往生院見性寺と称した年として伝えています。

お寺に伝わる由緒と、残された記録。その二つを分けてたどると、見性寺がこの土地で受け継がれてきた姿が見えてきます。
由緒と記録
見性寺の始まりには、坂上田村麻呂がこの地に下向した際、祈願のためにお寺を開いたという伝承があります。 長い年月を経て語り継がれた話であり、お寺では開創の由緒として大切に伝えています。
文化10年(1813年)の「竹田村寺社書上帳」には、見性寺はもと明清寺といい、現在地から西へ五・六丁(約五、六百メートル)の山中にあったと記されています。 その後、火災や再興を経て、現在の地でお寺の歴史が続いてきました。
源智上人がお寺を再興し、無生山往生院見性寺と称した年として伝えています。
浄土宗寺院の開山記にも見性寺の名が残り、お寺の歩みをたどる手掛かりになっています。
旧地や明清寺の名が記され、現在地へ至る以前の姿を伝えています。
年代や旧地については記録ごとに違いがあるため、断定できない部分は伝承として紹介しています。
現在の本堂
檀信徒の皆さまと地域の方々が力を合わせ、現在の本堂を建てました。計画から落慶、その後の境内整備までをご紹介します。

本堂建替えの将来計画を檀信徒総会で共有し、再建に向けた歩みが始まりました。
地鎮式を勤め、秋には上棟式を迎えました。
仏像・仏具を本堂へ戻し、十二月に開眼式を勤めました。
四月二十一日、現在の本堂の落慶式を勤めました。
鐘楼の耐震工事と屋根の修復を行い、境内の記憶を次代へ残しました。

享保13年(1728年)
享保13年(1728年)、鐘を望む村人たちは夏小麦と秋大豆を出し合い、鐘の鋳造を支えました。 完成した鐘は、毎朝夕に村へ時を告げていたと伝わります。
その鐘は太平洋戦争中の金属回収令で供出され、戻ることはありませんでした。 鐘楼の中央だけが空いた現在の姿は、日常の音まで戦争によって失われたことを伝える、物言わぬ語り部です。
お寺に残るもの
本堂には、開山源智上人をはじめ、物故された歴代住職の位牌を安置しています。現住職は二十九世を継いでおり、代々受け継がれてきた名が、お寺の歩みを今に伝えています。
旧本堂の柱には、開山期から明和期までの年数を記した板文字が取り付けられていました。解体時に記録され、お寺の年代を考える手掛かりとなっています。
山形村指定史跡の古墳にまつられていた穴観音は、預かり仏として見性寺でお守りしています。古墳の周辺は崖崩れのため、現在は近づくことができません。
法要や供養についての確認、来山前のご連絡はこちらから。